平成28(2016)年4月14日
齊藤 準(京都工芸繊維大学准教授/京都北山やままゆ塾々長)
はじめに
高度経済成長期以降の日本では,人々のライフスタイルと意識に大きな変革がもたらされた。特に農業分野では構造的改革が進み,農薬や化学肥料,農業機械などの普及により生産性が向上した。その一方で農業人口は減少し,農村を取り巻く環境も大きく変化した。かつて人里近くには「里山」と呼ばれ,山を中心とした地域に隣接する雑木林,竹林,田畑,ため池,用水路を含めた人の生活と関わりの深い自然環境があった。里山は最も身近な自然であり,日本の原風景として懐かしく想われる人も少なくないと思う。この環境は,人為的な管理が加えられることで維持されてきた二次的自然でありながら,豊かな自然環境が生み出されることで動植物の種の多様性をもたらしている。絶滅危惧種が集中して生息する地域は,動物種では約49%,植物種では約55%が里山の地域内に分布することが明らかになっている。また,身近な種の生息域についても50〜60%が里山に存在する。このように多くの野生生物にとって里山は重要な生息域となっている。
京都には,伝統と文化を継承しながらも,先端的な技術を生み出す環境がある。人々は日々の暮らしの中で季節の変化を感じ,自然の恩恵を享受してきた。京都の市街地の三方を取り囲む山々(三山:東山,北山,西山)は,その森林から燃料を得ることで,人々の生活と密接な関わりをもってきた里山である。京都三山における里山林は,森林景観として大切であるばかりか,多様な生き物を育む重要な地域となっている。最近,この三山の森林の様相が大きく変化し問題となっている。薪炭林としての役割がほとんどなくなり,人手が加わることがなくなったため,遷移が進み常緑のシイ林が拡大している。また,1970年代からは松くい虫の被害によるアカマツ林の衰退が起こり,2000年代の半ば以降は,カシノナガキクイムシによるナラ枯れ被害が拡大している。さらに,近年はニホンジカ(シカ)による被害として,枝葉,実生,稚樹や萌芽などの採食に加えて,樹皮の剥ぎ取りにより樹木を枯死させるなど問題はより深刻化している。
京都三山の森林の約4割が落葉樹のアベマキ,クヌギ,コナラなどのブナ科コナラ属の植物で構成されている。これらブナ科植物は通称ドングリの木として多くの昆虫種の餌となっており,里山の生物多様性に大きく貢献している。大型鱗翅目昆虫のヤママユは,主にコナラ属植物の葉を食べて成長する。ヤママユは日本全国に生息するものの環境の変化に伴ってその姿を見る機会は少なくなっている。京都三山に生息するヤママユを文化資源として捉え,種の保護とその生息環境の保全について考えてみたい。
ヤママユと呼ばれる虫
ヤママユAntheraea yamamai Guérin-Ménevilleは,山野に生息して繭を作る絹糸昆虫の「野蚕」の仲間で,人為的に家畜化された家蚕とは違う虫である。ヤママユは,鱗翅目,カイコガ上科,ヤママユガ科に分類され,別称として天蚕,山蚕,山繭とも呼ばれている。ヤママユは日本原産で,北海道から九州,沖縄に至るまで全国に分布し,年に一度発生する一化性である。自然条件下で4月下旬〜5月上旬頃に卵から孵化し,幼虫はアベマキ,クヌギ,コナラ,カシワなどのブナ科植物の葉を食べて50〜60日間で4回の脱皮を行い5齢幼虫となる。葉と葉の間に繭を作り,営繭から7〜8日後に繭の中で蛹となる。7月下旬〜8月中旬に羽化して成虫となる。交尾後,雌蛾は食樹の小枝に産卵し卵で越冬する。繭1粒の糸の長さは600〜700m程度で,1,000粒から250〜300g程度の生糸がとれる。天蚕糸には,光沢が良く,太く,伸度が大きく,織物にしても丈夫で,しわにならず,暖かく,手触りが良いなどの優れた特徴がある。天蚕糸は,その特徴と希少性から「繊維のダイヤモンド」と称されている。また,天蚕糸を家蚕糸に混織すると,織物としての衣料性能が向上することから,ネクタイ,財布のような小物類から家具やインテリア等の素材としても利用されている。特に長野県安曇野市穂高町の有明地方では,天明(1781〜1789)の昔から天蚕の飼育が続けられている。
ヤママユガ科の虫たちは,世界中に79属,約1,400種いるといわれ,そのうち日本に生息するものは8属11種である。京都市の北山周辺ではヤママユの他にシンジュサンSamia cynthiaやオオミズアオActias alienaの生息が確認されている。すでに京都市産ヤママユ類の系統化にも成功している。これら京都市産ヤママユ類を生息域内で保護するとともに生息場所である森林環境の保全も進めて行きたい。京都三山に生息するヤママユ類をはじめとした多様な昆虫種は,京都にとって貴重な資源であり,多彩な機能性を有する生物素材としてその利用が期待される。